一度、触れ合ってしまうと、ブレーキはきかなかった。
どちらからともなく、何度も唇を重ねた。
さっきまでの逡巡を振り払って、わたしはただ “今” を求めた。
繰り返す優しいキスに胸がいっぱいになる。嬉しくて、あたたかくて、そして悲しかった。
これが、あの頃のわたしたちだったら――。
また田下くんとの思い出が、頭の中に映し出される。あの頃だったらよかったのに。
ずっと曖昧なままだった二人の関係が動き出すには、遅かった。
それでも、わたしにはもう止めることができなかった。
カラオケを出たあと、わたしたちは田下くんの家へ向かった。
田下くんの家へ
この先に進むことをお互い考えていたのか、このときのわたし自身の気持ちも思い出せない。
まだ一緒にいたくて、離れたくなくて、ただそれだけだったような気がする。
夜風に当たりながら歩いているうちに、自然といつもの二人に戻っていった。軽口をたたいて、笑い合った。
だけど、繋いだ手と、ときどき触れる肩に、わたしたちの距離が今までとは違うことを感じていた。
その夜、わたしたちがそれ以上先に進むことはなかった。
優しく、強く抱きしめられるだけで、心は満たされていった。
夫が眠る家に帰った
田下くんの家を出たのは、もう深夜だった。
夫が起きていませんようにと祈りながら自宅に戻ると、家はまっくらでわたしはほっとした。
静かにシャワーを浴びて、寝室へ向かう。
眠っている夫を起こさないようにベッドに潜り込み、夫に背を向けた。
いつもと同じ寝室。いつもと同じベッド。隣には、いつもと同じように夫が眠っている。
何も変わっていないはずなのに、わたしだけが数時間前までとは違っていた。
「キスしてもいいですか」田下くんの言葉がまるで映画のワンシーンのように、現実からは遠くに思い出される。
求められて、抱きしめられて、キスをした。
田下くんの腕も、胸のあたたかさも、唇の感触も、愛おしいあの時間を忘れたくなくて、何度も何度も思い返していた。
既婚者としてやってはいけないことをした。
だけど、このときのわたしにあったのは、罪悪感よりもずっと大きな幸福感だった。
夫に背を向けたまま目を閉じる。
いつもと同じこの部屋で、いつもの寂しさはなかった。

